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ベイエリアの歴史(27) - アメリカの建前とドイツからの難民

ピューリタン達がニューイングランドに来てさらに半世紀ほど後、もう一人の重要人物がアメリカ大陸にやってきます。 当時のイギリス国王チャールズ2世は、裕福な軍人で英国教会教徒のウィリアム・ペンに借金しており、そのカネを返すかわりに、オランダからぶんどったばかりのニュージャージの南部・西部(=辺境)を「大勉強!あげちゃう!」と与えました。親父ペンには、当時の新思想に染まった理想主義の同名の息子がおり、「ぼ、ぼ、ぼくは、父さんのような腐った大人になりたくないんダ!」とプロテスタントのクエーカー派に改宗しました。息子ペンは、イギリスでますますプロテスタントへの迫害が厳しくなって、新大陸で理想郷を作りたいと思っていたので、(この親父と王様のきたない大人どうしの取引で得た)新天地に仲間と一緒に喜び勇んで出かけていきます。(大人たちは、厄介な息子と厄介な新興宗教を追っ払ってせいせいしたんだと思います。)1681年のことです。

1385042673_william-penn-16441718ウィリアム・ペン(息子)

しかし実は、この息子ペンは優秀なリーダーでした。彼はこの土地をシルバニア(ラテン語で「森の国」)と名付けようとし、チャールズ2世は親父ペンに敬意を評して「ペンシルバニア」と名づけました。息子ペンは、「信教の自由、主権在民、三権分立」という新しい考え方の統治システムをつくり、その理想に忠実にオープン・ポリシーを掲げ、どのプロテスタントの宗派でも、あるいはカトリック教徒であっても、誰でも平等に権利が与えられるようにしました。当時、ニューイングランドではピューリタン以外は入れないという「ピューリタン原理主義」になってしまっていたので、自由の国ペンシルバニアと、それに隣接する、オランダ領時代からの「フリーダム」気質のニューヨーク・ニュージャージーに、あらゆる宗派の人々が欧州から続々とやってきました。

やってきた人々は、イギリスの各種プロテスタント、オランダのカルヴァン派、フランスのユグノー、北欧人などいろいろですが、中でもドイツからは、各種プロテスタントとカトリックも少々入り混じった人々が、怒涛のようにやってきました。ドイツ語のデマ、と言いましたが、1680年にペンシルバニアの人口の60%がイギリスで33%がドイツ、ニュージャージーとデラウェアでは6-11%がドイツ出身だったそうで、かなりたくさん(おそらく数十万人の桁?)いた、というのは嘘ではなさそうです。(フランスもオランダも、自国の領地があるのに、せいぜい数千人でしたよね。)18世紀の本国の人口が、フランス(2200万人)に次いでドイツ(1700万人)であり、オランダやイギリスと比べ一桁多く、とにかく母数が大きかったということでしょう。また、ペンの統治システムのおかげでインフラ整備も進み、フランス植民地ほど住民がバタバタ死ぬ状態ではなかったのだろう、ともいえます。

ここまで見てきたイギリス、オランダ、フランスの場合は、いずれも北米に「領地」を持っていてそこに自国民が合法的に「植民する」というパターンでしたが、ドイツは当時まだ欧州の中の後進国で、海外領地どころではなく、前回述べたように、戦国時代に日本にやってきた欧州人の中には、ドイツ人もオーストリア人もいませんでしたよね。1600年代当時のドイツは、同時期の「江戸幕府」と似たような構造で、神聖ローマ帝国=オーストリア(天皇家)はオスマントルコと宗教改革にやられ続けて衰退しつつあるけれど「キリスト教会の守護者」としての正統性で君臨だけはしており、その下に数百の封建諸侯(大名)が割拠して、その中で一番大きいホーエンツォレルン家(徳川家)のプロイセンが「盟主」(征夷大将軍)として浮上してきました、という感じです。

この頃、宗教戦争に端を発して、みんな(いくつかのドイツ諸侯含む)でオーストリアをいじめた「三十年戦争」が起こり、戦場となったオーストリア/ドイツは、泥仕合の末に国内でカトリックとプロテスタントが現状維持というどっちつかずの終わり方となり、権力は細分化のまま固定しました。同時期に、フランスはルイ14世の絶対王政に向かい、イギリスは共和制を着々とつくりあげたのに対し、ドイツはずるずると競争優位を失い、戦乱で荒廃した住民の生活は貧窮し、どこでもいいから逃げ出したいという人が続出したのです。つまり、このときのドイツ移民とは、「経済難民」のようなものといえます。その後もドイツからの移民の波は続き、フランス革命からナポレオン戦争にかけて、またまたドイツが踏み荒らされてしまった頃がピークだったようです。

難民といっても、やはりプロテスタント、つまり職人・商工業者という「中間層」の人々が多く、今でも世界に冠たる「ドイツのクラフツマンシップ」で知られる人々が大量にはいってきて、その後のアメリカ北部の工業の発展を支えていきます。

そして、ペンのつくった理想郷の統治の仕組みは、その後アメリカ合衆国に受け継がれ、その理想は(本音ではいろんな人がいろんな考えを持っていますが、「建前」として)アメリカ人のアイデンティティを支える「理念」となっています。(をい、トランプ、きいてる?)

出典: 在日米国大使館、fujiyanの添書き、Wikipedia、Civil Liberties